(1)1990年「共同発表」

 花岡事件は、被害者ら一部の人々の間では語り続けられたものの、長らく続く冷戦の下での日中両国の国交断絶状態、そして中国国内政治の激動の中で、人々の口吻に上ることはなかった。しかし、この事件の傷の痛みは、少なくとも被害者とその遺族の心の中では、癒えることなく残り続けていたのである。

 1989年12月に、花岡事件の生存者および遺族は、謝罪・記念館の建設・補償の3項目を要求する「公開書簡」を鹿島建設に送り、戦争中鹿島建設の行った強制連行・強制労働の実態が、広く知られるに至った。翌1990年には、耿諄氏らが来日し、鹿島建設と直接交渉を行うこととなった。その結果、同年7月5日、耿諄氏ら花岡事件の生存者および遺族と鹿島建設との間で3項目からなる「共同発表」が行われた)。その中で、生存者および鹿島建設双方は、つぎのことを確認した(資料2・「共同発表」参照)。

 1)鹿島建設は、花岡鉱山での強制連行・強制労働が1942年の「閣議決定に基づく」「歴史的事実」であることを認め、「企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対し深甚な謝罪の意を表明する。」

 2)鹿島建設は、上記「公開書簡」での3項目の要求について、「双方が話し合いによって解決に努めなければならない問題であることを認める。」

 3)被害者・鹿島建設双方は、周恩来の「過去のことを忘れず、将来の戒めとする」との精神に基づき、「生存者・遺族の代理人との間で協議を続け、問題の早期解決をめざす。」

 しかしその後、「鹿島建設は、解決に向かうよりも『共同発表』を何とか骨抜きにして反故にせんとする姿勢が顕著になった。3)」そして、補償交渉は決裂し、1995年6月28日、耿諄氏ら花岡事件被害者および遺族計11名が、鹿島建設を相手取り、強制連行・強制労働およびこれにともなう暴行・虐待を受け、肉体的・精神的損害を被ったとして、不法行為および安全配慮義務不履行に基づく損害賠償として、ひとりあたり550万円、計6,050万円を求めて、東京地方裁判所に提訴するに至ったのである4)。




2)この間の経緯について、福田昭典「鹿島建設 強制連行の企業責任認める−一転、歴史的先鞭つけ補償実現」前掲註1)『日本企業の戦争犯罪』154−55頁、新美隆「花岡事件和解訴訟研究のために」専修大学社会科学研究所月報459号(2001年9月20日)16−17頁参照。

3)新美・前掲註2)「花岡事件和解訴訟研究のために」17頁。

4)ここで注意しなければならないことは、「花岡事件」とはあくまでも日本側がつけた「暴動事件」の名称であり、本件訴訟で問題とされたことは、強制連行・強制労働に対する鹿島建設の法的責任の追及と被害者の被害回復である。この意味で、本件は「花岡強制連行事件」ともいうべきである。(この視点は、新美隆・弁護士のご指摘による。)

内藤光博「戦後補償裁判における花岡事件訴訟和解の意義」専修大学社会科学研究所月報No.459(2001年9月20日)掲載より引用